茶道の濃茶に使う茶碗と言えばやっぱり高麗茶碗!という人がいると思います。
良いと言われる茶会での濃茶の茶碗はたいてい高麗茶碗ですからね。
しかし、「高麗茶碗って良くわからない」というかたも多いのではないでしょうか。
たとえば、茶席で亭主が「御本三島です」と言われた時に「ゴホンミシマって何?」って思ったりしますよね。
御本は高麗茶碗の中で圧倒的に数が多いので、茶会に出てくる確率は高いのですが、イマイチよく分からないというかたも多いです。
今回はそんな「御本茶碗」について解説します。
御本茶碗とは何か
御本茶碗というのは高麗茶碗の一種です。
狭い意味では釜山窯で作られた茶碗の事で、広い意味では日本からの注文によって作られた高麗茶碗の事を言います。
と言っても、それだけだとなんだかよく分からないと思うので、くわしく解説します。
「高麗」の意味
御本の話しの前に、 高麗茶碗の「高麗」ですが、これは”朝鮮半島の高麗王朝時代に作られたもの”という意味ではありません。
中国大陸で作られた物を唐時代かどうかは関係なく唐物というのと同じで、高麗は”朝鮮半島で作られたものという意味”で使われています。
茶の湯が成立してきた頃(室町時代後期)に使用されていた茶碗は唐物の天目が大半だったようですが、段々と高麗茶碗が使われることが多くなり、さらには和物の茶碗の使用も増えてきました。
侘数寄、侘び茶というものが流行ってくるに伴って、高麗茶碗は侘びに合っている感じがしたのでしょうね、きっと。
ですので、
お茶で言う高麗茶碗というのは唐物のようにスキッとしてキッチリカッチリで上質な官窯で作られような物ではなく、民窯でつくったような感じを漂わせる、どことなくあたたか味のある茶碗です。
もっとわかりやすく言うと”なんかテキトーな感じ” がするってことです。
ずいぶんいい加減でザックリな言い様だなと思うかもしれませんが、このフィーリングは意外と大事なんです。
高麗茶碗 茶会記初見
高麗茶碗が茶会記に出てくるのは、松屋会記の1537年に十四屋宗伍(悟)の会に出てくるのが初見です。
この茶会記では「高ライ茶碗」となっているので、茶碗の種類はわかりません。
ですが、これは御本茶碗ではないですね。
さて、高麗茶碗について書いてある本を見ますとまず第一に出てくるのは井戸茶碗だと思います。
井戸は高麗茶碗の中でも一番人気があり、古来 茶碗の中で最高の物だと言われてきたようです。
ですが、いまとなっては数も少なく金額もかなりのものですので、一般の茶会で見かけるということはほとんど無いと思います。
名物手の井戸はマンション買えるくらいの値段ですので。
もしも茶会で見る事があれば、亭主に深く感謝しておかないといけませんね。
私のような一般人が見る事ができるのは美術館でだけ、です。。。
御本茶碗は一番大多数
いまの世の中にある高麗茶碗は圧倒的に倭館の窯で作られたものが多いです。
つまり現存する高麗茶碗のほとんどが御本茶碗ということになります。
次は高麗茶碗の大多数を占める御本茶碗を生産していた倭館窯について解説します。
御本はどこ行った?と言わずにもうしばらくお付き合いを。
御本茶碗の作られた倭館窯とは
御本茶碗を理解するには、倭館窯を知っておく必要があります。なぜなら
御本茶碗の多くは倭館の窯(倭館窯)で焼かれたものです。むしろ御本茶碗は倭館窯で焼かれたもの、という認識でも良いかもしれません(狭い意味では)。
倭館というのは朝鮮半島にあった日本人居留地で、文禄慶長の役(秀吉の時代に朝鮮に攻め入ったやつです)のあとに豆毛浦と草梁に作られた対馬藩の出張所のことです。
倭館窯は1639年に築かれ1718年に閉じられていますが、1678年(草梁へ移転して大量に生産し始めた)からの30年程の間に作られたものがほとんどだと考えられています。
- 1639~1678 豆毛浦
- 1678~1718 草梁
草梁で作られていたものは点数も多く、種類も多いです。
また、倭館窯では朝鮮で以前から作られていた高麗茶碗と同じような種類の物も作っているので(呉器とか三島とか)、御本の三島なのか、御本じゃない三島なのかという判断は難しかったりします。
「御本」の意味 茶道では常識
「そもそも御本茶碗の御本ってなに?」
ということで、御本という言葉についてですが、ざっくり言って意味が二つほどあります。
- お手本
- 斑点模様
御手本 おてほん
1つ目はお手本(御手本)という意味。
日本から絵や切型などで、お手本を示して朝鮮にある窯で日本からの注文品として作られたものという意味になります。
つまりデザイン図とか指導する人を送って、こんなモノを作ってねと注文していたわけです。
厳密にいえば注文品のほかに作った物もあったでしょうし、色々な例外は考えられますが、ややこしいのでとりあえず「日本からの注文品」と思ってください。
立鶴の茶碗の絵は徳川家光の下絵で、それを茶碗に描いたという伝承が有名です。
これがいわゆる御本立鶴(リンク)の茶碗です。
赤い斑点模様
御本の2つ目の意味は御本茶碗によくみられる赤い斑点模様のことです。
この ”赤い斑点模様自体” の事 を御本や御本手という場合が結構あります。
赤い色は器の表面の小さな穴に空気が入り、土の鉄分が酸化して赤くなったものだそうです。
ですので、和物の茶碗でも「御本がよくでていますね」などと言う場合があります。
御本と呼ばれる斑点模様ががあるからといって御本茶碗(高麗モノ)とはかぎらないのです。
御本茶碗の種類
御本の意味が分かったところで
「じゃあ御本茶碗ってどれのこと?」という疑問があります。
実をいうと御本は種類が沢山あったり、これは御本でこれは違うという明確な差が無かったりで、説明が非常に難しいです。
そういうわけで、よく出てくる御本茶碗の代表的な物を知っていると、おぼろげながらもなんとなく解ってくると思います。
よくある御本茶碗の種類は
- 絵御本
- 御本判使
- 御本呉器
- 御本堅手
- 御本三島
- 砂御本
- 彫三島
- 伊羅保
- 御所丸 などなど
挙げるとキリがないところがありますし、個別にいろいろと意見もあるところなので、最初は 「”御本”と名前に付いているのは御本茶碗なんだな」と思ってもらったら良いかなと思います。
ところで、高麗茶碗は昔の焼き物なので検証には窯跡の発掘調査が欠かせません。
しかし充分に発掘調査がされているわけではありませんので、判っていないことも沢山あります。
判っていないことが沢山あるということは、いろんな人がいろんな説を、伝承なども織り交ぜて、言ったり書いたりしています。
その点を踏まえた上で読んでいただけると助かります。
御本呉器
呉器は倭館窯が築かれる前からつくられていた高麗茶碗です。
呉器という茶碗は最近では雑器ではなく、祭器であると考えられています。
高台が高めでシュッとしてるからですね。
有名なものに、信長が本願寺顕如に贈ったという呉器があります。
いわゆる「一文字呉器」ですね。スゴク有名な茶碗です。
呉器茶碗のうちの、日本からの注文品が御本呉器茶碗って事になるんですが、厳密に「これは御本の呉器で、あっちは御本ではない呉器」と判別できるわけでは無いです。
今みたいにトレーサビリティは無いですしね。
なので、御本呉器は「いかにも日本からの注文品のタイプだよね」という呉器のことを言います。
高麗茶碗を沢山みたことが無いとわからないですよね、これでは。でも、そういうものなんです。
倭館窯でないところで発掘される呉器形の茶碗の陶片は、やはり少し野性味(と表現すべきか…)があるような荒々しい物だったりします。
ちなみに、大徳寺呉器、紅葉呉器、番匠呉器、尼呉器など形や色からの名称がありますが、大徳寺とか番匠あたりは少し古い物と言われ、絵呉器、判使呉器、御本呉器などは倭館窯と考えられているようです。
で、ややこしい話しですが、ものの本によれば呉器はすべて御本だと書いてある本もあったりします。
つまりは色んな人が、色んな意見を言ったりしているのが高麗茶碗なのです。
御本茶碗について一種類についてしか書いていないですけど、もう要点は全部書いてしまった感がありますので、あとは省略します(オイ)。
スミマセン(m´・ω・`)m
つまり、「御本なのか御本で無いのか」は作行(さくいき)によって分けられているというのが現状ということです。
がんばって目を肥やしてください!
- 高麗茶碗に興味がある!という方はこの本がすごくわかりやすいのでおススメしておきます。書いているのは野村美術館の谷晃先生。
高麗茶碗の中の御本茶碗 まとめ
まとめると
- 御本茶碗には種類がたくさん
- 高麗茶碗の大半は倭館窯の茶碗。
- 御本と付いてなくても御本茶碗だったりする
- 御本茶碗は作行がおとなしめ
- 作為があっていかにも注文品感を出していたりする
- 従来から朝鮮で作られている種類は御本かどうかの判断は難しい
以前読んだ本には1570年頃から朝鮮半島への注文は始まっているのではないかと書いてありました。誰の本だったか忘れましたが。
信長がまだ生きている時代からなんですよね、それって。
「注文品」の高麗茶碗というのは現在わかっているよりも今後はもっと多くなるのかもしれません。
三島とか刷毛目とか(日本からの注文よりも前から作られているものなので)を見たら、
「注文で作られた意図的な感じのするものか、それとも素朴で力強い豪放な雰囲気を持つ茶碗か」
とか考えてみてください。
高麗茶碗を見る上ではこれがかなり重要なポイントで、目を肥やす良い方法だと思います。
ということで、以上 「御本茶碗」茶道で定番の高麗茶碗 茶道具を知るともっと面白い という話しでした。
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