【千家十職】茶道具の職方の初代 いつから家業をしているのか

茶道具
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千家十職と言えば千家の茶道をしている人にはお馴染みの職方だと思います。

千家十職は茶道具作家として非常に有名ですし、値段もかなりするものですので、なんとなく利休時代から続く十の職人の家だと思っていたりしないでしょうか。

家によって違いますが、実は利休時代から茶道具を作っていた家ばかりではありません。

そして、千家十職という名前は近代になってから出てきた名前なので、昔からある名前というわけではないんです。

では、利休時代から今の職業をしているのはどの家なのかご存じでしょうか?

利休時代に既に今の職をしている家は

  • 永樂家
  • 樂家
  • 中川家

です。

意外に多くはありませんね。では他の家はいつ頃から職方をやっているのでしょうか?

まず、千家の祖”千利休”が生きていた時代を確認しておくと

1522(大永二)~1592(天正十九)年

という事ですので、千利休は戦国時代から安土桃山時代の人です。

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千家十職(せんけじっしょく)

千家十職と言われるのは

  • 樂家  茶碗師
  • 中村家 塗師
  • 大西家 釜師
  • 永楽家 土風炉師・焼物師
  • 中川家 金物師・錺師
  • 黒田家 柄杓師・竹細工師
  • 駒沢家 指物師
  • 飛来家 一閑張細工師
  • 奥村家 表具師
  • 土田家 袋物師

という、千家に出入りする十の職方の家です。

それぞれ初代はいつ頃の人なのかを見ていきます。

樂吉左衛門(らくきちざえもん)家

利休が作らせた抹茶専用の茶碗といえば「樂茶碗」、ですので樂家は利休時代から続いている家です。

樂家の初代は言わずと知れた長次郎です。

稽古を始めると樂歴代を覚えなさいと言われて、最初に覚える人なのではないでしょうか。

利休が樂家初代の長次郎に茶碗を作らせていますから、間違いなく利休時代から続いている家です。

樂家の名字は昔は「田中」でしたが、秀吉から田中宗慶が「樂」の字の金印を拝領したことから樂を名乗っています。

田中といえば、利休(田中与四郎)と同じなのは偶然でしょうか。

中村宗哲(なかむらそうてつ)家

中村宗哲家の初代 八兵衛は武者小路千家の一翁宗守(当時は甚右衛門、吉文字屋吉岡家に養子に入っていた)から塗師の家業を譲られて塗師の家の初代となっています。

一翁宗守という人は元伯宗旦の次男ですから、宗哲の初代は利休時代よりも何世代か後の人になります。

一翁宗守の娘は初代中村宗哲に嫁いでいる関係もあって、宗哲の家は武者小路千家との関りがとても強い家です。

さて、初代宗哲の代表作には凡鳥棗という藤村庸軒好の棗があります。

代表作を覚えておくと作者はいつぐらいの人なのか思い出す時に役に立ったりします。

藤村庸軒の時代なんだなぁと思ったりすると何となくイメージが沸くかなと思います。

ちなみに中村宗哲は先代も当代も女性の当主です。

大西清右衛門(おおにしせいえもん)家

釜師の大西家は初代の浄林が山城の国出身で1590~1663年の人です。

大西家は、初代浄林が二人の弟達と京へ上洛し、三条釜座の座人になったのが始まりです。(1620年頃)

大西清右衛門美術館

という事ですので初代は利休よりも後の時代、織部~遠州時代あたりに活動している人です。

弟の大西家二代目にして江戸時代でNo1の茶の湯釜名人とも言われる、浄清(五郎左衛門 村長)作の遠州好の釜を茶会などで見ることも良くありますので、時代のイメージもつきやすいかと。

大西家が千家の出入りになったのは6代目 浄元でいわゆる古浄元(コジョウゲン)の時からです。

大西家歴代には「ジョウゲン」という音の人が何人もいるので「クロゲン」や「サヘイジョウゲン」などの通称で区別されていたりします。

通称で呼ぶと、なんか玄人っぽいですね。

江戸時代には京大西家と江戸大西家がありましたが、今は大西家といえば京都になりますね。

永樂善五郎(えいらくぜんごろう)家

永樂家は元は西村家という土風炉を作っていた家で、奈良にあった土風炉師の家です。

初代は紹鴎から依頼を受けて土風炉製作したそうですので、利休時代以前から土風炉の職人をしているかなり古い家です。

永樂という名前を名乗るのは和全からで、了全、保全が江戸後期に紀州の殿様治宝公から金印と銀印(「永樂」)を拝領したことがきっかけです。

ちなみに金印は「河濱支流」の印で、たまに永樂家の作品に押されているのを見ることが出来ます。

千家への出入りは10代の了全からといわれてます。

中川浄益(なかがわじょうえき)家

金物師・錺師の中川家初代紹益が利休に薬缶を作ったという話が有名ですので、利休時代からやっている家ですね。

初代は紹益という字ですが、二代目からは浄益という字になります。

11代目が平成20年に亡くなっていて当代がしばらく不在になっていたようですが、今はどうなっているのやら。

素晴らしい金工技術が失われてしまうのは惜しいですので、継承していってほしいですね。

黒田正玄(くろだしょうげん)家

柄杓師・竹細工師の黒田家の初代は関ケ原の戦までは武士だったそうです。

その後は竹細工師をしていたそうですが、小堀遠州とのつながりで幕府御用達の柄杓師になったということですので、初代は遠州時代の人ですね。

元々は千家との関係より遠州との関係の方が深そうです。

さて初代の正玄の頃というのは、千家でいうと元伯宗旦時代のという事になります。

現在、千家で使用する柄杓は正玄が作った正玄形という柄杓になっています。

駒沢利斎(こまざわりさい)家

駒沢家は「初代が延宝時代に指物業を始めた」とされていますので、1670年代から80年代あたりから活動している人ですね。

延宝時代は元伯宗旦のあたりの時代になります。

利斎の号は4代が覚々斎にもらったということなので、この頃本格的に出入りするようになったと考えられます。

7代の利斎は塗師・春斎としても活躍し、今でも多くの道具を見ることができます。

塗りも素晴らしいので、マルチアーティストだなと思います。

当代はしばらく不在だったようですが、次に継ぐ人はもう決まっているようです。

飛来一閑(ひきいっかん)家

飛来家は趣味の紙漆細工を元伯宗旦に気に入られ、一閑張の注文を受けるようになったのが家業をするきっかけです。

初代一閑は元は中国(明)の杭州の生まれですが清の侵攻によって大徳寺の清巌宗渭を頼り日本に亡命してきました。

清巌宗渭の紹介で元伯宗旦とも親しくなり、飯後軒という号を宗旦からもらっています。

飯後の茶事をよくやっていたという事ですね。

当代の当主は女性です。

ちなみに岸一閑という初代の娘の家系で一閑張をやっている岸田家という家もありました。

岸一閑は大きく「岸」と器物の底などに書いてあるので非常にわかりやすい銘です。

奥村吉兵衛(おくむらきちべえ)家

表具師の奥村家の祖先は元々近江の武士で浅井家の家臣だったようです。

浅井家が信長に攻められ滅亡し浪人、その後、孫(初代)が武士をやめて京都で表具師を始めたのが1654(承応三)年ということですから、江戸前期頃から表具師をしていることになります。

千家の宗匠で言えば、表千家4代の江岑あたりになります。

2代目の吉兵衛が覚々斎のとりなしで紀州徳川家の御用を受けています。

土田友湖(つちだゆうこ)家

袋師の土田家の祖先は元々武士で井伊直政に仕えていたそうです。

初代は武士をやめ、西陣織の仲買人をしていました。

仲買人をしつつ袋師 亀岡宗理の弟子になり、のちに亀岡宗理の袋師の家業を継いでいます。

覚々斎の頃に千家に出入りをしていて、如心斎と琵琶湖で舟遊びをした友達ということで如心斎から友湖の号をおくられています。

覚々斎~如心斎の時代の人ですので江戸中期頃の人ということになります。

土田家としては友湖というのは隠居名で、当主は半四郎と名乗ります。

千家十職 まとめ

ということで
利休時代にすでに現在の家業をしている家は 

  • 樂家
  • 永樂家
  • 中川家

ということになります。

他の家は元伯宗旦時代くらいから家業を始めている家が多いですね。

千家に出入りするのは覚々斎の時代頃が多いようです。

千家十職と言っても、ほとんど表千家との関りで出入りの職方になっているのでむしろ、表千家十職っていう感じなんだと思います。

実際、十職達がやっているお茶の流派は表千家の様ですし。

実は千家十職以外にも茶道具を作っている職方は千家に出入りをしていて、「○○千家様お出入り」などと書いてあったりします。

他にも出入りの職方を知っておくと、知識が増えて面白のではないでしょうか。

それぞれの流派の機関紙(茶道雑誌や淡交など)に職方や道具屋さんの広告が載っていたりするので参考になります。

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